フラワステラ

すきなことを、すきなだけ考えて、読んで、書く。

「翔んで埼玉」雑記

こんにちは、花須寺です。こう書いて「かすてら」と読みます。

 

先日、映画を見てきました。

その名も「翔んで埼玉」

忘れないうちに、感想などをまとめておきます。毎度のことながら、丁寧語の文体で書こうとして失敗していますが気にせずどうぞ。

※ネタバレについては考慮せずに書くので、未視聴の方は自己責任での閲覧を宜しくお願いします。

 

 

◇今回も、映画を見るに至った経緯の話から。

映画と関係ない話も多分に含まれますが、「雑記」と表記した「個人ブログ」なので好き勝手に楽しく書きます。

一時はそれを「どうせただの吐瀉物」と謙遜紛いの無駄な自虐をしていたものですが、それこそ時間の無駄なので、生きてる以上は楽しいことを考える時間にあてようと決めました。

閑話休題

 

わたしは魔夜峰央先生の原作をパラっと読んだだけで、詳しい内容を知らないまま今作に臨みました。

家族は『パタリロ!』をはじめ魔夜先生の作品をこよなく愛し、この映画も自分より一足先に観たということで、前々から勧めてくれました。調べたところ原作が存在するということで、原作未読の人間が見に行っていい代物なのか判断しかね、先送りにしていたのがついこのあいだのこと。

そこから「じゃあ映画でも見てくるか」となったのは、家族のプレゼンに心惹かれたわけでも誰かに連れて行かれたわけでもなく、正直に白状するなら、ただの憂さ晴らしでした。

 

最近は、将来への不安から逃げようとしてできないというのを繰り返しており、少し疲弊していました。頑張りたいこととは別に、自分もこれもそれもあれもどれも面倒で、眠る時間が最も休まるというのに眠るための準備を怠る有様。生きてるのが不思議です。3/15あたりに死にそうな思いをしたのですが、笑えないので割愛します。

いつの間にか、また自分でもわけのわからない悩みのループに翻弄されていました。2018年度の夏あたりからわたしの頭に巣食って離れないこのルーパーは、ひとりの時間にやってくるらしく、ここのところ逃げ場がありませんでした。ひとりでいるからループするというよりは、じっくり考えたいことで悶々としているけれど答えが出ない、ないしは出してはいけないことを自覚して悩んでいました。自分は人に助けを求めたり相談したりするのが苦手だったので、それを誰かに相談するなどできませんでした。「うるせえ知るか」はこちらの台詞です。

そんな折、家族から連絡があり、再度この作品をおすすめされることに。

家にひとりでいるとループから逃げられそうもなかったので、映画を見に行くことを決めました。昼過ぎにさっさとネット予約でチケットを取り、夕方に家を出るまでのことはもう覚えていません。多分何もなかったんだと思います。ただ、開幕前に待合スペースでキャラメルポップコーンを黙々と平らげただけ。そこまで早く着いたわけではなかったのに入場までが長く感じただけでした。

 

 

 以下、内容に関していくつか気になった点などです。

 

「地元には何もない」?

何の理由があってか、地元を卑下する言動をとるひとがいます。照れ隠しか謙遜か、はたまた本気か。謙遜のつもりだとしたら、大体の場合そのひとは言いすぎです。

一体何に対して遜っているのかもわからない。相手の地元と比較してのことだろうという反論があったなら、比較するなら相手の地元にも話を進めるはずなのに内容はいつまでたっても自分の地元から動かないではないかと首を傾げます。自分の時間を最大限使って、言うことが「ウチの地元には何もない、これしかない」ときている。加えて、その原因は「地元を知り尽くしている」からというよりも「地元には何もない」という形で言葉の裏から、言葉をうようよと人形劇のように活き活きさせているとは、なんだろう。

 

埼玉から出るという娘さんこと、菅原愛海の言動を聞いたとき、同族嫌悪が湧きました。あそこにいつかの自分がいる、とさえ思ったほどです。今は自分の地元が好きになったものの、数年前まではこの娘とやや似たような言動をとっていました。自分は世間知らずなうえに浅学なため都会志向は薄かったのですが、地元を卑下する言葉はよく吐いていたように思います。何もない田舎だ村だと、いくらか整備された交通網と大きなスーパーと駐車場に囲まれて育った子どもが言うのを、同居している親族はどう思っていたのか。親族の地元は同一ではないため、自分に同意してくれる意見も時にはありました。だから当時は何も思わなかった。

しかし、自分が無知を痛感するのはいつもその分野やカテゴリから離れた場所に来てからのことでした。

 

地元を出て外の学校へ通うことになってから、当然のことながら地元以外の人と接する機会が増えました。すると必然的に地元のことを聞かれることも多くなります。

「あなたの住んでいる町はどんなところ?」「ああ、それはね…」話そうとして、ぐぐっと、喉が詰まる。思い出すこと、聞いてほしいエピソード、名物、眺めのいいところ、おいしい飯屋、住んでいる人の話、お世話になったクラブ、話のタネは少なくともそれまで生きてきた自分の人生分ほどはあるはずでした。興味や好意からわざわざ自分にも話を振ってくれているならなおのこと、うまく伝えれば悪い印象は持たれないだろうということもなんとなくわかっていたつもりでした。自分にとっては大切な思い出がそこそこ詰まった土地であり、嫌いではない。単純に思いついたことを言ってもよかったのに、結論から言って自分は「何もないところだ」と笑って答えました。

「娘と似た言動」と書いたのは、この言葉が慢心からくるものだったからです。

地元のことなど「知っている」が、あえて他人に伝えられるレベルの特色は果たしてあるのか。その時の回答は否だった。知っていると言ったくせに、何も知らないじゃないかと文字で見ればすぐにわかることを、当時は分からなかった。自分を貧乏と言ったり地元を田舎と謗ったりすることが、謙遜を美徳とするのと同じようによいことだと思ってさえいた気がします。この無知すら、自覚したのはそこからさらに数年の時間が経った後でした。

 

映画を見終わってから、少しずつ地元の特色を探し始めています。

今からでもわかることは少なくありません。

例えば、長らく地元の特産物だと得意に思っていたものが既に外の生産量に劣ってしまっていることを知ったのもつい最近。その品はかつて地元の山という山で多くの農家が作っていましたが、世の中にものが溢れてきたこと、物流の整備が進んだこと、農家の後継者減少、外へ移住する人口の増加など、現在へ至るまでに様々な要因からそれの生産自体も減っていったのだと思います。

それから、交通の要所として栄えた町の面影。史跡や街道などの「跡」だけでなく、この町が今後も活き活きと存続できるよう始められた新しい試み。そうしたものは問題点と共に多くのアイディアが込められており、いくら調べても飽きることがありません。他ならぬ自分の地元に関する情報なのだと、暇をこじ開けては調べ物に没頭する時間が少しずつ増えました。帰属意識の高まりなのかもしれません。

是非は聞き手の判断に委ねるとして、今あの時と同じ質問が来ても「何もない」とはもう言えない。何をどう伝えようかには迷っても、伝えることを躊躇する必要も遜ることもないのがなんとも嬉しく、ちょっぴり誇らしくもあります。決して努力を重ねてきた人たちの威を借ることはしたくありませんが、地元のことくらい誇っても罰は当たらないはずです。これで自分も地元解放戦線の一員になれたのだろうか。

 

 

麗様を見聞きした時の顔→(・へ・)?

風格もセリフも仕草もかっこいいがくとさま、少々舌足らずで笑ってしまった。

せっかくの見せ場でもそのままの調子で進まれるので、正直笑いをこらえるのが大変だった。後ろから見て、おそらく肩はもう揺れていたと思う。見苦しくて申し訳ない。麗様に限らず、脚本の随所に見受けられるシリアスの妙から笑いを誘うシーンは多く、劇場内も温かい雰囲気に包まれてはいたが、なぜこの舌足らずさを(悪い意味ではなく)笑う声が聞こえなかったのかは未だに謎。

しかしながら、所謂「ださいたま」のシーンではその舌足らずさが台詞にマッチしていました。地元民を鼓舞するこの場面での言葉は、メタ的に言えば、聞き取りやすいように訛らず共通語で構成されています。それを訛りのような舌足らずさで吐き出すことにより、一度は都会指数の高い人間に擬態した麗様が、本格的に父の跡を継ぎ、地元民の側から出陣を命じるシーンに情熱が生まれたように感じられました。おそらくはただの舌足らずで、これらはこじつけというか考えすぎというか、もはや妄想の類だとは思いますが。

 

 

公開処刑」シーンで麗様が「選んだ」言語について

このシーンで麗様に課せられたのは「英語」でのスピーチのみ。そこにフランス語・スペイン語ほか多言語を操るのは麗様独自の考えによるものだと思われます。あらゆる方面の言語を持ってきているところは見ていて痛快でしたが、西洋圏の言語になぜフランス語とスペイン語が選ばれたのかは気になりました。

予め注記しておくと、他にも言語があるだろうという批判では決してありません。ただ、英語を加えてフランス語・スペイン語の3つは国連の公用語になっている言語のはず。そこに絡めて考えると、あの場面での麗様自身がこちらに痛烈な皮肉を浴びせてきたように思えたのです。

聴衆とは、あの講堂で席を与えられていた「都会指数の高いとされる子たちの集団」を指します。都会という、一見客観的に見える基準でものを判断する民に向けて都会的でない(=世界的に大きく扱われない、換言すれば第一位や第二位には挙げられない)言語を話したところで彼女たちはその意味を理解できなかったり、その言語が話せるという強みを実感できなかったりする。それを、国連の公用語にもなるレベルの言語(上述の例でいえば、第一位などに挙がる言語)で話せば彼女たちは確実に「この言語を話せるなんてすごいわ」と理解してくれる可能性が高まります。

後に解放戦線のリーダーとなる麗様、つまりラストシーンで差別を糾弾する立場にまで到達する人間に序盤の段階で既に「大きな言語」を「選んで」話すシーンを作った。麗様ほどの成長を遂げた人物でさえ、差別から脱却するには至らなかったかのように映りました。その意味とは、一体なんでしょう。また考えすぎの可能性もありますが。

 

 

おわりに

パンフレットにもあった通り、現代パートのキャラクターと演じる方々の出身地がリンクしている点にハッとさせられました(例外として竹中さん演じる神奈川県知事がいらっしゃるが)。中には、益若つばささんのように「演技は素人なので迷いましたが、埼玉県民ということで役に立てると思い……」と語ってのご出演を果たした方もおられ、胸が熱くなりました。思わず、埼玉ポーズ。

 

映画を見て、パンフを読んで、すっかり魔夜先生や本作の監督竹内さん・脚本の徳永さん・若松Pの生んだ「電車男」などの作品にすっかり興味を惹かれました。これを機にそうした作品たちや、親族から「別に続けて読まなくてもいい」やら「いっそ読まなくていい」やらと言いながらも勧めてくれた「パタリロ!」を味わってみるつもりです。

 

 

取り急ぎまとめたものなので粗さは目立ちますが、映画を見てすぐの感想はあとで忘れてしまったり変わってしまったりするので、ひとまずこうしてここに残しておきます。

ここまでお読みくださり、本当に、本当にありがとうございました。

 

 

(*´▽`*)<静岡県民にはそこらの茶葉でも喰わせておけ!(地産地消)(ただの良い人)